1887年にノッティンガム・ラレーストリートで立ち上げられたラレーカンパニーは、フランク=ボーデンが19世紀後半に香港から帰国後、事業の激務から体を衰弱。友人の勧めにより、トライシクル(三輪車)から自転車に乗り継ぐことで体力を回復し、自転車のすばらしさを体感したところに始まる。内装変速機や、ハブダイナモなど、現代にもつながる数々の開発を行い、製品化することになる。ラレー代表作の一つとしてあげられるロードスターは日本の一般用自転車の原点でもあった。また、レース、サイクリングの事業にも積極的に関わり、ツールドフランスを始め、数々のレースでの優勝と、選手を支える機材の開発も行い、20世紀中葉には世界最大の自転車メーカーに発展した。ボーデンは英国自転車産業の発展とたたえられ、爵位授与にまで至る。ラレーはその後自転車だけでなく、モーターバイク、自動車までにも業容を拡大するが、欧州大陸とは異なる環境から、自転車に集約。数々の自転車メーカーの吸収合併も行い、世界各国に代理店と工場を置くまでに成長した。貫かれた思想は、フランク=ボーデン自らが体感した、自転車のある最高の日常。一般用途からスポーツ用途に亘り、すべての人々に、良い自転車を提供することにあった。英国特有の実用を旨とする思想が、自転車にも具現化されたのである。
日本においては、明治維新以降、欧州文化・技術の多くを英国に求める。自転車もその例にもれず。輸入するだけでなく、ラレーを主とする英国製自転車の研究もされ、日本の自転車産業の基礎となった。鉄鋼生産が緒についたばかりの時代にあって、1914年に鋼製リムの生産に成功したアラヤも、当時のラレー工場でのリム生産に原点を見出すことができる。フランスやイタリアなど、欧州大陸では英国と異なる自転車文化もあったが、英国自転車文化の矜持は保ちつつ、秀逸と考えられたものは積極的に採用された。内装変速で貫いてきた競走用自転車においても、いち早くイタリアコンポーネントの採用に踏み切る。また世界各国に展開した現地代理店においても、各国で各国の環境に沿った自転車を提供する姿勢がとられている。これにも、先に述べたすべての人に良い自転車を提供したいという思想の現れと言えまいか。現代、日本でスポーツ車が普遍化する中、アラヤのラレージャパンもラレーの思想を引き継ぎ、日本人と日本での用途に合った設計の製品を提案してきた。約130年の歴史、自転車の歴史はラレーの歴史といっても過言ではない、「変わらないこと、進化すること」を具現化したことに、世界中の支持と共感を得た実績であると確信する。
「All Steel Bicycle」20世紀初頭より長く使われたラレーのキャッチコピーである。往時の自転車フレームにおけるラグやフォーククラウンなどの接手部は鋳鉄(Iron)で製造され、その時代の鋳造技術も背景にあるが、割れ等の破損問題も生じていた。ラレーはそれらをプレス工法により、接手部分に至るまで鋼(Steel)による製造に成功し、問題を克服した。「鐵は國家なり」。産業革命が興った後の欧米も、明治維新後の日本も、全産業の基礎となる鉄鋼産業に重点を置き、そして現在も脈々と続いている。鉄鋼素材は長い歴史を経て、近年になって利用されてきたアルミやカーボンファイバーも含むプラスチックなどよりも、知り尽くされた素材であり、さらに製鋼方法や合金化により、現在も進化を続けている。
鉄鋼は、製鋼過程で炭素、シリコン、マンガン、リン、硫黄をわずかに含んだ普通鋼が一般に使われるが、さらにクロムとモリブデンを含み、普通鋼より約3倍の強度を有した合金鋼がクロモリ鋼である。素材強度があることで、普通
鋼フレームよりも薄いフレームチューブで構成することが可能となり、強度を確保しながら軽量なフレームとなる。さらにバテッド加工で、チューブ肉厚を変化させることで、さらなる軽量化と強度バランスを両立させることも実現させた。鋼はある一定のストレス以下であれば、加わり続けても破損に至らない疲労限度を有している。アルミでは見られない特性であり、上手に使用すれば一生モノといわれる所以でもある。アルミフレームはこのことを考慮して、大径チューブを採用し、オーバースペック気味の強度で設計されている。クロモリフレームは「しなやか」といわれるが、比べられるアルミフレームが高剛性過ぎることが、この理由でもある。
ラレーでは多くのモデルにクロモリフレームを採用してきた。クロモリ鋼が有する数々の機械的性質メリットの享受だけではなく、クロモリフレームのスリムなデザイン的要素も大きく、永く変わらず、機能的、外観的にも「良い自転車を提供する」、ラレーの思想にも通じる部分がある。